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西国三十三ヵ所 第3番 和歌山市「風猛山 粉河寺」 [西国33箇所]

この札所に庭がとても良い庭園でした庭園としては規模の大きなものではないが、石組みの枯山水庭園は力強い美しさを感じるものに仕上がっており、印象的である。「粉河寺庭園」は国の名勝に指定されている。

770年のある日、猟師の大伴孔子古(くじこ)が山中で霊光を発する場所を見た。霊光を見た孔子古はこの地が霊地に違いないと考え、ここに小堂を建立したと伝えられている。

この小堂に童男大士が訪れ、七日間、堂に籠もって仏像を刻み、これを本尊にするようにと孔子古に与えたといわれており、翌日、童男大士が去ると、その仏像は金色に輝く観世音菩薩になったという。

孔子古は童男大士こそ観世音の化身と考え、以後、殺生をやめ供養礼拝したといわれ、これが粉河寺の創始と伝えられている。
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この縁起は国宝に指定されている「粉河寺縁起」という紙本著色絵巻に描かれているが、原本は京都国立博物館に寄託されているようであり、粉河寺にはその複製品が保存されている。
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西国三十三ヵ所 第17番 京都市 「補陀洛山 六波羅蜜寺」 [西国33箇所]

六波羅蜜寺は、京都府京都市東山区にある真言宗智山派の寺院である。山号は補陀洛山。本尊は十一面観音。開基は空也。西国三十三所第17番札所。
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踊り念仏で知られる市聖(いちひじり)空也(くうや)が平安時代中期の天暦5年(951年)に造立した十一面観音を本尊とする道場に由来し、当初西光寺と称した。空也は疫病の蔓延(まんえん)する当時の京都で、この観音像を車に乗せて引きながら歩き、念仏を唱え、病人に茶をふるまって多くの人を救ったという。空也は応和3年(963年)に鴨川岸に僧600名を集めて大規模な大般若経供養会を行ったが、この時をもって西光寺の創建とする説もある。当時、鴨川の岸は遺体の捨て場であり、葬送の場であった。

空也の死後、977年に比叡山の僧・中信が中興して天台別院とし、六波羅蜜寺と改称した。それ以降天台宗に属したが、桃山時代に真言宗智積院の末寺となった。平安末にはこの付近に、六波羅殿と呼ばれた平清盛ら平家一門の屋敷が営まれた。またのちに鎌倉幕府によって六波羅探題が置かれたのもこの付近である。

名称は仏教の教義「六波羅蜜」という語に由来するが、この地を古来「六原」と称したことに由来するとも考えられている。 なお、六波羅密寺とする表記が古今多く見られるが、誤字である。
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西国三十三ヵ所 第18番 京都市 「紫雲山 六角堂 頂法寺」 [西国33箇所]

頂法寺は、京都市中京区にある天台宗系単立の仏教寺院。山号は紫雲山。本尊は如意輪観音。西国三十三所第十八番札所。正式の寺号は頂法寺であるが、本堂が平面六角形であることから、一般には「六角堂」の通称で知られる。華道、池坊の発祥の地としても知られる。
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頂法寺の創建縁起は醍醐寺本『諸寺縁起集』『伊呂波字類抄』に見え、寺所蔵の『六角堂頂法寺縁起』や近世刊行の『洛陽六角堂略縁起』などにも見える。これらの縁起が伝える創建伝承は大略以下のとおりである。
敏達天皇の時代、淡路国岩屋浦に閻浮檀金(えんぶだんごん、黄金の意)の如意輪観音像が漂着した。この像は、聖徳太子が前世に唐土にあって仏道修行していた時に信仰していた像であり、太子はこの観音像を念持仏とした。これが後の頂法寺本尊である。太子は16歳のとき、排仏派の物部守屋討伐にあたって、護持仏に「無事討伐できたならば、仏の功徳に感謝して四天王寺を建立いたします」と戦勝祈願したところ勝利した。そして、寺建立のための用材を求め、小野妹子とともにこの地を訪れた。その際、太子は池で水浴をするため、傍らの木の枝の間に持仏の如意輪観音像を置いておいたところ、像は重くなり動かなくなってしまった。観音像は光明を発し、自分は七生にわたって太子を守護してきたが、今後はこの地にとどまり衆生を済度したいと告げた。そこで太子は、四神相応のこの地に伽藍を建てることとした。東からやってきた老翁(鎮守神の唐崎明神)が、紫雲たなびく杉の霊木のありかを教えてくれたので、その材を用いて六角形の堂を建立したのがこの寺の始まりである。
『元亨釈書』によれば、平安京造営の際、六角堂が建設予定の街路の中央にあたり邪魔なため取り壊されそうになったが、その時黒雲が現れ、堂は自ら北方へ約5丈(約15メートル)動いたという。

以上のように六角堂の創建は縁起類では飛鳥時代とされているが、1974年から翌年にかけて実施された発掘調査の結果、飛鳥時代の遺構は検出されず、実際の創建は10世紀後半頃と推定されている[3][4]。六角堂が史料に現れるのは11世紀初めからである。藤原道長の日記『御堂関白記』1017年3月21日条に、「六角小路」という地名が見えるのが早い例である。他にも『小右記』(藤原実資の日記)などに六角堂の名が見える。『梁塵秘抄』所収の今様には「観音験(しるし)を見する寺」として、清水、石山、長谷(清水寺、石山寺、長谷寺)などとともに「間近く見ゆるは六角堂」とうたわれている。こうしたことから、六角堂は平安時代後期には観音霊場として著名であったことがわかる[5]。

鎌倉時代初期の1201年、叡山の堂僧であった29歳の範宴(のちの親鸞)が、この六角堂に百日間参籠し、95日目の暁の夢中に聖徳太子の四句の偈文を得て、浄土宗の宗祖とされる法然の専修念仏に帰依したとされる。

室町時代の1461年山城大飢饉のとき、8代将軍足利義政は、この堂の前に救済小屋を建て、時宗の僧願阿に命じて、洛中に流入した貧窮者に対し、粥施行(かゆせぎょう)を行なわせた。寺地が下京の中心であったことから、特に応仁の乱の後からこの寺は町堂として町衆の生活文化や自治活動の中核となる役割を果たした。下京に危機がせまると、この寺の早鐘が鳴らされたりもしている。また、京都に乱入する土一揆や天文法華の乱などでは出陣する軍勢の集合場所となったり、あるいは下京町組代表の集会所になったりしている。

近世には、「京都御役所向大概覚書」によると、朱印寺領1石と記されており、寺内に多聞院、不動院、住心院、愛染院などがあったが現存しない。観音霊場の寺として庶民の信仰を集め、近世に門前町が発展し、そこには巡礼者のための宿屋が数多く建ち並び、洛中では有数の旅宿町として発展した。

1125年の火災をはじめ、江戸時代末までの間に確認できるだけで18回の災害にあったが、庶民の信仰を集める寺であり、また町組の中核となる寺としてその都度復興されてきた。現在の本堂は、1877年に再建されたものである。

西国三十三箇所 第10番 明星山 三室戸寺  [旅行]

このお寺、宇治の平等院の近くに有り花寺として有名ですよね~皆さんも良くご存知と思いますが昨日4月20日に行って来ました。
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お天気も良くて暑くて上着を脱いでポロシャツになり歩いて来ました!暑くて汗ばむ陽気で疲れましたが御参りが済んで帰る時には元気に成りました!

三室戸寺 は、京都府宇治市にある寺院で山号は明星山です。本尊は千手観音、西国三十三所第10番札所、本山修験宗の別格本山である。

寺伝によれば、770年光仁天皇の勅願により南都大安寺の僧行表が創建したものという。創建と本尊に関しては次のような伝承がある。

天智天皇の孫にあたる白壁王(後の光仁天皇)は、毎夜宮中に達する金色の霊光の正体を知りたいと願い、右少弁(右少史とも)藤原犬養なる者に命じて、その光の元を尋ねさせた。

犬養がその光を求めて宇治川の支流志津川の上流へたどり着くと、滝壺に身の丈二丈ばかりの千手観音像を見た。犬養が滝壺へ飛び込むと1枚の蓮弁(ハスの花びら)が流れてきて、それが一尺二寸の二臂の観音像に変じたという。

光仁天皇がその観音像を安置し、行表を開山として創建したのが当寺の起こりで、当初は御室戸寺と称したという。その後、桓武天皇が二丈の観音像を造立、その胎内に先の一尺二寸の観音像を納めたという。

以上のように、当寺の創建伝承については伝説的色彩が濃く、創建の正確な事情についてははっきりしない。園城寺(三井寺)の僧の伝記を集成した『寺門高僧記』所収の僧・行尊の三十三所巡礼記は、西国三十三所巡礼に関する最古の史料であるが、これによると、11世紀末頃に行尊が三十三所を巡礼した時は、三室戸寺は三十三番目、つまり最後の巡礼地であった。1099 ~1103年、三井寺の僧隆明によって中興されたという。

その後1460 ~ 1466年の火災で伽藍を失い、再興されたものの、1573年には織田信長と争った足利義昭に加勢したため焼き討ちされる。現存する本堂は江戸時代後期の1814年に再建された。

本尊は千手観音像であるが、厳重な秘仏で、写真も公表されていない。本尊厨子の前に立つ「お前立ち」像は飛鳥様式の二臂の観音像で、二臂でありながら「千手観音」と称されている。

この本尊像に関わる伝承は「歴史」の項で述べたとおりで、高さ二丈の観音像は1460 ~ 1466年の火災で失われたが、胎内に納められていた一尺二寸の二臂の観音像は無事であったという。

秘仏本尊を模して造られた前述の「お前立ち」像は、大ぶりの宝冠を戴き、両手は胸前で組む。天衣の表現は図式的で、体側に左右対称に鰭状に広がっている。

こうした像容は奈良・法隆寺夢殿の救世観音像など、飛鳥時代の仏像にみられるものである。厨子内の秘仏本尊像自体については、指定文化財でないため、年代等の詳細は不明である。

2008年が西国巡礼の中興者とされる花山法皇の一千年忌にあたることから、2008年から2010年にかけて、西国三十三所の全札所寺院にて札所本尊の「結縁開帳」が行われることとなった。三室戸寺本尊の千手観音像は2009年10月1日 ~ 11月30日に開扉されたが、これは前回開扉1925年以来84年ぶりの公開である。
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西国三十三ヵ所 第19番 京都市 「霊麀山 行願寺」 [西国33箇所]

行願寺は、京都府京都市中京区にある天台宗の寺院。山号は霊ゆう山。本尊は千手観音。通称、革堂(こうどう)。西国三十三所第十九番札所である。
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『百錬抄』、『日本紀略』等によれば、行願寺は1004年、行円が一条小川の一条北辺堂跡に創建したものである。一条北辺堂については、『日本紀略』989年8月13日条に「一条北辺堂舎倒壊」とあり、行願寺の創建以前から存在したことが裏づけられる。当初の寺地は現在の京都市上京区、京都御苑の西方で、付近に革堂町、革堂仲之町、革堂西町の町名が残る。

行円は仏門に入る前は狩猟を業としていたが、ある時、山で身ごもった雌鹿を射たところ、その腹から子鹿の誕生するのを見、殺生の非を悟って仏門に入ったという。行円はその鹿の皮を常に身につけていたことから、皮聖、皮聖人などと呼ばれ、寺の名も革堂と呼ばれた。行円の生没年は未詳だが、比叡山の横川出身の聖と推定されている。藤原道長の息の藤原顕信は1012年、行円のもとで剃髪出家している。

寺は豊臣秀吉による都市計画のため、1590年に寺町荒神口(現・上京区、京都御苑東側)に移転。1708年の大火の後、寺町荒神口の旧地からやや南に下がった現在地に移転した。
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